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VOL.15 DECEMBER 2003

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【シリーズ?東北】

「奥羽」から「東北」へ

教授
岡田 清一

 現在,何気なく使われている地域名称としての「東北」地方とは,いつごろから使われ始めたものなのであろうか。歴史に少しでも興味を持つ者ならば,「東北」地方はかつて「奥羽」と呼ばれていたことに気づくことだろう。では,「奥羽」から「東北」への変化は,いつごろ,どのような背景のもとになされたのであろうか。
 江戸時代以前,この地域は陸奥(むつ)国と出羽(でわ)国から成り立っていた。したがって,「奥羽」の名称は両国が成立してからの呼称であることはいうまでもない。明治元(1868)年12月,陸奥国は磐城(いわき)?岩代(いわしろ)?陸前?陸中?陸奥の5国に,出羽国は羽前(うぜん)?羽後(うご)の2国に分割され,さらに明治4年7月の廃藩置県によって国名としての陸奥?出羽は消滅した。したがって,「東北」とはそれ以後の成立と考えることは容易である。ところが,この地域をもっとも早く「東北」と称したのは,岩本由輝『東北開発120年』(1994)によれば,慶応4年(1868)7月頃,木戸孝允によって提出された,奥羽越列藩同盟加盟の諸藩に対する建議書の表題「東北諸県儀見込書」や,木戸の手記同年12月7日条の「東北諸県御処置」であるという。廃藩置県をさかのぼること4年であった。では,木戸はこの地域をどのような考えのもとに「東北」と記述したのであろうか。
 木戸は長州出身にして,討幕派の巨頭の一人であった。当時,西国や江戸にとって「奥羽」は,「日本の偏鄙」なる地域であり,その住人もまた「粗忽あらましなる風俗」の人びとであった(浅野建二校注『人国記』岩波文庫)。こうした「偏鄙(へんぴ)?粗忽(そこつ)」の印象は,この地域の気候?風土に根ざしたものであったが,その根底には京都?江戸を中心とする中華思想的発想,すなわち,文化の高い中心=「華」に対して,その周囲には東夷(とうい)?西戎(さいじゅう)?南蛮(なんばん)?北狄(ほくてき)という未開社会が存在するという考えがあった。つまり,「東北」とは,「東夷?北狄」を約めた表現であったのである。木戸にとって,「偏鄙?粗忽」な「奥羽」こそまさに文化果つるところの「東夷?北狄」の住む「東北」であったのである。したがって,木戸にとって自分の出身である西国は「西戎?南蛮」を意味する「西南」ではありえなかったのである。

 では,「偏鄙?粗忽」な「奥羽」観はどのように成立したのであろうか。結論的にいえば,近世の石高(こくだか)制社会が大きな要因となったのではなかろうか。石高制社会とは,米の生産高が基準の社会であり,日本全国が米の収量という統一された基準で評価されていた。本来,南方を原産地とする稲作が,冷帯に属する「東北」地方で飛躍的に収量を増やすことはあり得ない。現在でもなお冷害?凶作の発生する「東北」地方が,江戸時代に多くの冷害?凶作に悩まされ続けたことは周知のこと。こうした米の穫れない地域「奥羽」に対する評価の一つが『人国記』であったのであり,さらにそれはそこに住む人びとへの評価ともなった。
 こうした評価は,明治政府=薩長藩閥政府によっても解消されることなく,近代化のなかで米の単作地?単純労働力の供給地としての地位しか与えられなかったのである。なお,「東北」の「米どころ」という評価は戦後のものであることに注意したい。
 このような「中華思想」的発想は現在も厳然として存在する。例えば,高校日本史の教科書の一部を抜粋してみよう。
 A 桓武天皇は,遷都とならんで蝦夷の征討に力をいれた。光仁天皇のころから,奥羽の蝦夷が大規模な反乱をおこし,一時は鎮守府のある多賀城をおとしいれた。
 B 八世紀後半以来の蝦夷の反乱に対して,三回にわたって征討軍が派遣された。……九世紀後半に出羽の秋田付近の反乱を鎮定したのを最後として,東北のえぞのはほぼ鎮定された。
 C この時期には,長くつづいた蝦夷の鎮定も完了した。八世紀の末ごろ,蝦夷は東北各地で反乱をおこし,桓武天皇のとき,数度も大軍が派遣されたが,……
 D 奈良時代後半から鎮守府の多賀城を中心に進められてきた東北支配に対して,蝦夷は強く抵抗していた。そして七八〇(宝亀一一)年,蝦夷に呼応した陸奥国の郡司による大乱がおこった。……坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じて蝦夷を攻め,……蝦夷の抵抗は一〇世紀前半までつづいた。
 ここには,蝦夷(えみし)の「反乱」に対し,「鎮圧」のために「征討」軍が派遣され,蝦夷が「鎮定」されたという記述が多い。しかし,例えば,「征討」を『大漢和辞典』(大修館書店版)で繙くと「上が下の非違を攻め撃つ。兵を出して罪あるものを征伐する。征伐。」とあり,『日本国語大辞典』(小学館版)にも,「兵を出して,背く者や手向かう者を攻め討つこと。征伐」とある。「鎮定」も「力でさわぎをおさえしずめること」を意味する。「征」自体が「行」と「正」から成り立ち,「正しく行く」を意味する。しかし,蝦夷は「非違」ある人びとであり,「罪ある者」「背く者や手向かう者」であったのだろうか。
 六国史の記述ならともかく,現代社会で使用される教科書の記述であるところに,区別?差別(区別される?差別される)に頓着しない態度が垣間見えるように思われる。おそらく,この4種類の教科書で全国の高等学校で使用される日本史の教科書の大半を占めよう。いかに多くの高校生が使用しているかを考える時,こうした教科書の記述の在り方が,日本を構成するそれぞれの地域に対するイメージに大きな影響を与えていることを想像することは容易である。

 「東北」地方は,薩長藩閥政府の中華思想によって作り上げられたのである。もちろん,その前提としての「奥羽」に対する後進性?遠隔地というイメージが当時,既に存在したことは前掲『人国記』の記述から明らかであろう。しかし,『人国記』が刊行された17世紀から約3世紀半を経てもなおかつその認識は存在し,小さな中華意識を再生産し続けていく危険を内蔵していることを忘れるべきではない。
 さらにいえば,米の生産量の多寡が文化の高低と理解(混同)されてきたことに対して,そうした見方を肯定したうえで,それに対抗するために,奥羽もまた稲作地域の拡張に努めてきた事実であろう。それ故に,農政の矛盾もまた奥羽に集中する。
 こうした自己矛盾ともいえる心情は,東北縦貫道やいくつもの横断道を開通させ,東北新幹線が東京駅に乗り入れて「中央」に直結させたと喜ぶ。たしかに高速道や東北新幹線の利便性は否定しえない。しかし,その結果,奥羽には地価の高騰,自然環境の破壊,産業廃棄物の廃棄……が多発する。そこに,「中央」の矛盾解決の場としての奥羽が存在する。盛岡以北の新幹線が建設されるのと引き換えに在来線が廃止された。この在来線を利用する住民の生活は,なんら保障されない。今,新たな意識の変革が求められるのである。

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