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VOL.17 MARCH 2004

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前九年の役?後三年の役

 通信教育部で仕事をしていると入学希望者からの電話で,あちらこちらの地名を耳にします。そのなかで印象に残ったのが「盛岡市前九年(ぜんくねん)」です。歴史の教科書に出てきた「前九年の役」と関係があるようです。
 平安時代の中期,貴族政治がすすむなか国家の力が弱まり,いまの岩手県付近は安倍氏が力をふるっていました。安倍氏は地元蝦夷(えみし)の長で当初は俘囚(ふしゅう)長として国家から自治を認められていましたが,しだいに税をおさめない,勢力範囲を宮城県北部に拡大するなどで,国家と対立するようになります。その結果,「前九年の役」という戦いが起こり,安倍氏は陸奥守(むつのかみ)として赴任していた源頼義(みなもとのよりよし)ら朝廷側に滅ぼされてしまいます。
 「前九年」という地名は,安倍氏滅亡の地「厨川柵(くりやがわさく)」が付近にあったとされることから付けられたと思われます。盛岡市在住の作家高橋克彦氏の歴史小説『炎立つ(ほむらたつ)』では,この時代のことが描かれています。
 「前九年の役」で最後に朝廷側の味方になり功績をあげたのが出羽の俘囚長の清原氏でした。清原氏一家の内紛に源頼義の子で同じく陸奥守として赴任していた源義家が介入して起きたのが「後(ご)三年の役」です。
 秋田県仙南村(横手市と大曲市の間)にある「山北金沢柵」が最後の決戦の場所で,付近にJR「後三年」駅があります。なぜか「前九年の役」も「後三年の役」も現在の地名に残っています。
 ところで,「前九年の役」は9年ではなく12年にわたる戦いであったとされます。後に「後三年」と合わせて12年という誤解が生じて,「前九年の役」と呼ばれるようになったそうです。
 「後三年の役」で源義家に協力して勝利した清原清衡(きよはらのきよひら)が改姓して藤原清衡と名乗ります。清衡が平泉に移って,中尊寺金色堂を建立するなど,奥州藤原氏三代の基礎を築くことになります。

(Pon)

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