2025/01/10 社会福祉学科
『週刊福祉新聞』に取り上げられたリカバリーカレッジ文化祭について黒田教授に聞いてみました
12月8日、リカバリーカレッジおおた(山田悠平代表/精神障害者当事者会ポルケ所属)が主催したリカバリーカレッジ文化祭が福祉新聞に掲載されました。文化祭にて、黒田教授が、佐賀、神戸の当事者?支援専門職と共同で提供した講座についてきいてみました。
黒田教授のコメント
リカバリーカレッジ(以下、RC)を初めて耳にしたという人も多いでしょう。というのも、RCはアメリカのエンパワメントセンターの流れをくむ、イギリス発祥(2009年)の比較的新しい取り組みだからです。リカバリーの定義を試みたAnthony (1993) によれば、
リカバリーは、病いによって制限が生じたとしても、それぞれの人が、態度、価値観、感情、目標、技能、役割などを変えながら、その人が満たされ、希望に満ちた生活を送るプロセス、です。
治療によって症状や苦痛を和らげるのは澳门赌场app_老挝黄金赌场-【唯一授权牌照】ですが、同時に、病いや障がいのある本人が希望をもって生活することはとても大事なことです。リカバリーでは、症状をゼロにするのではなく、本人が「こういう生活をしたい」と主体的に表現できる環境を整えて、本人の主体性にもとづく行動や生活を周りがサポートするプロセスを非常に大切にします。つまり、リカバリーとは、単なる回復や修復という意味ではなく、精神的な生きづらさや困難があったとしても、自分の人生や生活を取り戻すことができるという考え方のことであり、自分の人生や生活を取り戻すプロセスはその人固有のものだという考え方です。
さて、みなさんの中には、これまでに風邪などのカラダの不調を一切感じたことがないという人はいるでしょうか?では、カラダではなく、ココロの不調についてはどうでしょうか?
どうしてこの問いを投げかけるのかといえば、私たちは、日常生活を通じて、カラダの不調に関しては、予備知識をもち、情報を蓄えて対応していますが、ココロの不調についてはどうなのでしょう?
メンタルの不調を予防し、再発を防ぐための知識や認識に関しては、カラダの不調にくらべると不足していないでしょうか?ここで、私たちはリカバリーという考え方について、もっと積極的に関心を払う必要があるように思われます。
メンタル不調からのリカバリーと捉え直すと、リカバリーは多くの人にとって他人事ではないはずです。さらに、リカバリーは、人それぞれに異なるのですから、それぞれがリカバリーに向き合い、リカバリーが促進されるよう、お互いのリカバリーに貢献できるような実践や場があってもよいでしょう。それがRCという活動であり拠点なのです。
この記事で取り上げられた講座では、自分のリカバリーにかかわることがらを「よみ札」と「とり札」のセットで表現し、お互いのリカバリーの経験とそのヒントについて学び合います。共同創造というRCの原則に従い、私も、佐賀、神戸の当事者と支援者と講座を共同創造しました(講座を提供した後も共同で事後評価を行います)。RCの活動は、仙台においても、2023年以降「ディカバリーカレッジmii」という団体で実践しています。
RCには、支援する/支援されるという関係はありません。そこにあるのは、リカバリーを高めるために互いの経験から学びあうというかかわりです。
RCでは、お互いが水平な関係であることを大切にします。そのためには、当事者、専門支援者、学識経験者といった社会的カテゴリー/社会的役割を取りはらい、学びの場が共同創造されることに価値づけをする必要があります。
けれども、この価値を実現することは、言葉で説明するほどに簡単ではありません。なぜなら、一定の社会的地位にある人(専門職など)は、自分の「鎧」に無自覚で、往々にして「鎧」を脱ぎ捨てることに抵抗を感じるからです。だからこそ、お互いが水平?対等であることを原則にするRCに意義があるのです。
今後、RCの価値が理解され、活動が拡がり、リカバリー文化が地域に根づいていけば、もっと生きやすい社会になっていくのでは…
そのような思いでRCの活動を続けています。
黒田教授のコメント
リカバリーカレッジ(以下、RC)を初めて耳にしたという人も多いでしょう。というのも、RCはアメリカのエンパワメントセンターの流れをくむ、イギリス発祥(2009年)の比較的新しい取り組みだからです。リカバリーの定義を試みたAnthony (1993) によれば、
リカバリーは、病いによって制限が生じたとしても、それぞれの人が、態度、価値観、感情、目標、技能、役割などを変えながら、その人が満たされ、希望に満ちた生活を送るプロセス、です。
治療によって症状や苦痛を和らげるのは澳门赌场app_老挝黄金赌场-【唯一授权牌照】ですが、同時に、病いや障がいのある本人が希望をもって生活することはとても大事なことです。リカバリーでは、症状をゼロにするのではなく、本人が「こういう生活をしたい」と主体的に表現できる環境を整えて、本人の主体性にもとづく行動や生活を周りがサポートするプロセスを非常に大切にします。つまり、リカバリーとは、単なる回復や修復という意味ではなく、精神的な生きづらさや困難があったとしても、自分の人生や生活を取り戻すことができるという考え方のことであり、自分の人生や生活を取り戻すプロセスはその人固有のものだという考え方です。
さて、みなさんの中には、これまでに風邪などのカラダの不調を一切感じたことがないという人はいるでしょうか?では、カラダではなく、ココロの不調についてはどうでしょうか?
どうしてこの問いを投げかけるのかといえば、私たちは、日常生活を通じて、カラダの不調に関しては、予備知識をもち、情報を蓄えて対応していますが、ココロの不調についてはどうなのでしょう?
メンタルの不調を予防し、再発を防ぐための知識や認識に関しては、カラダの不調にくらべると不足していないでしょうか?ここで、私たちはリカバリーという考え方について、もっと積極的に関心を払う必要があるように思われます。
メンタル不調からのリカバリーと捉え直すと、リカバリーは多くの人にとって他人事ではないはずです。さらに、リカバリーは、人それぞれに異なるのですから、それぞれがリカバリーに向き合い、リカバリーが促進されるよう、お互いのリカバリーに貢献できるような実践や場があってもよいでしょう。それがRCという活動であり拠点なのです。
この記事で取り上げられた講座では、自分のリカバリーにかかわることがらを「よみ札」と「とり札」のセットで表現し、お互いのリカバリーの経験とそのヒントについて学び合います。共同創造というRCの原則に従い、私も、佐賀、神戸の当事者と支援者と講座を共同創造しました(講座を提供した後も共同で事後評価を行います)。RCの活動は、仙台においても、2023年以降「ディカバリーカレッジmii」という団体で実践しています。
RCには、支援する/支援されるという関係はありません。そこにあるのは、リカバリーを高めるために互いの経験から学びあうというかかわりです。
RCでは、お互いが水平な関係であることを大切にします。そのためには、当事者、専門支援者、学識経験者といった社会的カテゴリー/社会的役割を取りはらい、学びの場が共同創造されることに価値づけをする必要があります。
けれども、この価値を実現することは、言葉で説明するほどに簡単ではありません。なぜなら、一定の社会的地位にある人(専門職など)は、自分の「鎧」に無自覚で、往々にして「鎧」を脱ぎ捨てることに抵抗を感じるからです。だからこそ、お互いが水平?対等であることを原則にするRCに意義があるのです。
今後、RCの価値が理解され、活動が拡がり、リカバリー文化が地域に根づいていけば、もっと生きやすい社会になっていくのでは…
そのような思いでRCの活動を続けています。