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仏教専修科

教員インタビュー(千葉公慈学長)「果てしない物語へ」

— 道元禅師がもっとも愛好された経典である法華経のことについて、お伺いしたいと思います。法華経では、長い長い何劫という単位の時間の中で、菩薩たちが生まれ変わり死に変わりして人々を救済していくという物語が語られています。すると、法華経の精神に従うならば、われわれはいつまでも消えてなくなることができないということになります。世界の終わりに至るまで何万回も何億回も生まれ変わって、あらゆる艱難辛苦をなめながら人々を救わねばなりません。それで質問ですが、もし学長のご臨終の時、道元禅師が枕元に立たれて、「わしと一緒に来い」と言われたら、学長はどうお答えになりますか。

千葉学長 (しばらく沈黙して)私はどこまでもついて行きたいと思います。結果的に振り落とされることもあるかもしれませんが、でも、ついて行って振り落とされるなら後悔はしません。

— はっきりしたお答えをありがとうございました。インタビューはこれで十分だと思います。

千葉学長 せっかくですからもう少し話しましょう(笑)。

— ではお願いいたします。

千葉学長 法華経というのは一つひとつが大きな物語で成り立っていますね。人々の「釈尊の心に触れたい」「声を聞きたい」「姿を見たい」「教えを受けたい」という心から生まれてきた物語です。そこには物語だけがもつ可能性のようなものがあります。

— 物語の可能性???

千葉学長 人間がこれからどれだけ物語を紡ぎだすことができるかということは、これからのわれわれ人類にとって大きな問題となり、また希望ともなるだろうと思います。そう思いませんか?あらゆる存在には物語があります。たとえばこの手元にあるティーカップにも完成品になるまでの物語があります。それは私たちの生活の中に、そのようにして限りない物語によって意味づけられながら存在しているわけです。法華経はそうした物語のうち、われわれの道しるべとなる大切な道を示す物語が込められているのです。

— すると学長は、その物語に参加してお行きになりたいということでしょうか。

千葉学長 そうです。どこまでも参加していきたいと思います。そして、誰かにその物語を伝えていきたいという気持ちをもっています。ちなみに物語というものには語り部が必要ですが、私たちの仏教専修科という学びの場は、ある意味ではそうした語り部を養成する場所(トポス)であるとも言えるでしょう。

— なるほど。

千葉学長 音楽に喩えると、「楽譜」というものがありますね。ブラームスの楽譜、ショパンの楽譜といったあの楽譜ですが。それを演奏家が解釈する。私たち経典の語り部は、いわば演奏家であると言ってもいいかもしれません。「解釈者」は「傍観者」とは違います。その音楽が、いわばよみがえって生きている。音楽にせよ物語にせよ、存在とはそういう力をもっているものです。また、本を読んでいると、いつの間にか本の中に飛び込んでしまっていることがありますね。テレビドラマを見ていると、いつの間にか主人公と一緒になって逃げていたり、泣いたり笑ったりしていることがあります。これらも物語の力です。物語としての経典は、読むものを傍観者にさせない力をもっています。法華経は大乗仏教の運動の、うねりの中心となった物語です。われわれを巻き込んでいく不思議な力をもつ物語なのです。そしてそこに巻き込まれていくと、傍観者ではいられなくなります。それで最初の問いにもどりますと、「ついて行けるかどうかわからない。でも、決して後悔はしない」という心になるわけです。

— 正直なところを申しますと、私自身はまったく覚悟ができておりません。私の死ぬときに本当に道元禅師が枕元に立って「わしについて来るか」と言われたら、私は「無理です」と答えるかもわかりません。

千葉学長 そこは「救われる」という物語もあるんじゃないでしょうか。物語というものは懐の深いものです。法華経には色々な物語が含まれていますが、たとえば「長者窮子」の話。家出した息子が迎え入れられる話ですが、そうした話は「自分は信じ切っていないんじゃないか」という思いをもっている人を引っ張り上げてくれる力があります。今は人工知能の時代に入りつつありますが、そのような時代でも、あるいはそのような時代だからこそ、世界と人生に意味を与えてゆく物語、そして「解釈」という能動的な行為の澳门赌场app_老挝黄金赌场-【唯一授权牌照】性が大きな問題となるのではないでしょうか。

— なるほど。物語に引き込まれ、巻き込まれて救われていくということですか。

千葉学長 思い出話なんですが、中学校の運動会で駅伝に出たことがあるんです。

— 長距離走がお得意だったんですか?

千葉学長 いや全然得意ではありませんでした(笑)。クラスで「どの種目で誰を出すか」という相談をしたんですが、スポーツの得意な人はみんな100メートル走や走高跳なんかに出るわけです。それで駅伝には出る人がいなくなってしまった。で、「駅伝はあきらめよう」ということになったんです。クラス対抗で総合点を競うわけですから、得点の取れそうなところで得点し、得点できなさそうな競技は捨てるのが合理的な戦略だということですね。いわば捨て駒です。それで「じゃあ誰をそのランナーにするか」ということになって、クラス全員が一斉に私の方を見た(笑)。それで私が駅伝のアンカーに選ばれたんです。私以外に選ばれたのもみんな足の遅い連中でした。で、運動会の当日、案の定私たちのチームは一番後ろで独走状態でした。私の前の走者は女子生徒だったんですが、眼に涙をためながら一生懸命走ってきました。ちょっと何というか、足がとても遅い子で、本当に泣きながら走っているんです。苦しいのか悔しいのかわからない。ひょっとしたら恥ずかしかったのかもしれない。だけど、その顔を見たときに、私は切実に「走りたい!」と思ったんです。

— うーむ。

千葉学長 私がぶっちぎりの最下位でゴールまで走ってきたとき、もうグラウンドに校長先生はじめみんな待っててくれて、盛大な拍手で迎えてくれたんです。私の前を走ってくれたクラスメートたちも一緒にそこにいて。

— いい話ですね。

千葉学長 法華経というのはそういう、いわば「結果の出ない人」も物語に参加できる話なんです。それを信じていきたいと、私は思います。振り落とされても、しがみついてゆく。宮沢賢治はそういう人のことを「デクノボー」と呼びました。私も道元禅師に、デクノボーとして従って行きたいと思います。

— 大変深いお話をありがとうございました。

(2021年11月公開)