仏教専修科
教員インタビュー(木村尚徳講師)「大本山での十年」
— 先生は大本山総持寺で十年にわたって修行なさったとお聞きしております。
木村 はじめ六年半で一旦区切りをつけて師僧の寺に戻ったのですが、二年ほど経ったときにまたお声がけをいただいて再上山することになりまして、それから四年間お勤めをさせていただきました。合わせて十年あまりです。
— 十年というのは本当に長い時間だと思いますが、先生はどのような心構えでその年月をお過ごしになりましたか?
木村 はじめから大きい目標を立てて修行に入ったわけではなかったのです。最初修行に入るときには他の人たちと同じように始めたんですが、そのうちに自分の中で小さな目標ができてきたんです。それが解決していくと次の課題が自分の中でふくらんでいって、「もう一年修行したい」という気持ちになりました。そして二年経ったときにはまた新たな課題が出てきました。そういう風に、一年単位で「もう一年」「もう一年」という感じで、気がついたら六年という月日が経っていたんです。
— 「年ごとの課題?目標」というのは、具体的にはどのようなものだったのでしょう?
木村 もちろん「修行とは何ぞや」「さとりとは何か」ということが大きな問題としてあるわけですが、実際に一年目の修行を始めると、そんなことを考える余裕はなかったんです。とにかく目の前の坐禅の行、それから読経、掃除、またさらに食事をいただくこと、鐘を鳴らすこと、そういう毎日の決められたカリキュラムをこなすのに必死でした。でも、そうした身の回りで自分の感じた問題ごとについて「これはどういうことなんだろう」と答えを探していくと、それが自分の課題になっていくわけです。それから修行を続けていくと、「そもそもこの修行の形態は誰が決めて、どこに書いてあるんだ」ということを疑問に思うようになりました。それは『瑩山清規 』とか、そういう形で長いこと守られてきたものがあるわけですが、そのあたりを意識するようになったのが三年目あたりでした。また、この頃になると若い後輩修行僧たちの指導をするようにもなります。すると自分が修行に入ったときのことを思い出しながら、「細かいことだけれども、そうした規則をちゃんと守っていくということが、本山の生活、修行の形態を維持していくのに澳门赌场app_老挝黄金赌场-【唯一授权牌照】なことなんだ」ということを伝えていかなくてはなりません。それから私の場合は四年目になる頃に典座寮という、精進料理を作る方にも配役として携わって、料理を作ることの心構え — もちろん料理を作ることの技術も澳门赌场app_老挝黄金赌场-【唯一授权牌照】なのですが、それと同時に世間の人々がそれをどのように受け入れてくれるかということも含めて — を学びました。それは私にとって大きな経験になりました。しかし、私にとって更に大きな気づきがあったのは、典座寮での修行の後でアメリカの禅センターに三ヶ月の研修に派遣された時のことです。私はそれまで、決められた規則の中で生活していくことが「厳しい」と感じていたのですが、アメリカの禅センターで修行していた人たちは厳しく注意されなくても、自分たちでカリキュラムを理解し、それを守って修行をしていたのです。彼らには「修行させられている」という感じはまったくありませんでした。彼ら彼女らはむしろ楽しそうに修行しているように見えたのです。そのことは非常に大きな印象として残っています。このことが大きなきっかけとなって、「自分にとって修行とは何か」ということをもう一回見直して考えるようになりました。アメリカから帰って来て五年目、六年目はお檀家さんと接する関係の部署に回ったんですが、すると色んな人たちがお寺に来られて、悩みを話して下さる。それに対して私たちが — お力になれるかはわからないのですが — お答えしていく。(ほとんどがただ話を聞かせていただく感じでしたが)それから、お参りに来られた方々にはお寺の歴史や禅の修行についてお話しする、そういったことをしていました。
— それが最初の六年ということですね。
木村 そうです。七年目に入ろうとしたときに、「自分が社会に戻った時に、自分はどれだけ世間の人々に受け入れてもらえるだろうか」という疑問を感じるようになりました。「修行道場を出て社会の中で宗教者として活動していけるだろうか」と心配になってきたのです。それで一旦山を下りようと決めたんです。その後二回目に上山したときには若い修行者たちの指導と、あとは本山の運営に関係する仕事に携わる立場でしたので、気持ちも視点も違いました。「若い人たちがいい修行をできるように」という思いがありましたし、「何百年と続いてきた修行の形態をいかにして維持していくか」という問題もあります。それから、大本山総持寺には多くの人々が参詣に来られ、悩みを抱えておいでになる方もまたたくさんおいでです。まあそういった感じでやってきて、気がついたら合わせて十年になりました。
— その間に、「修行とは何ぞや」「さとりとは何か」といういわばメインテーマは先生の中でどのように発展してきたのでしょう。
木村 学生の時にはいくらか仏書をかじったわけですが、もちろん精通したわけではありません。講義を聴く中で読んできただけです。修行に入ってから講義の時間はありましたが、睡眠時間が圧倒的に短いわけですので、すぐに眠くなってしまうんです。もっとも本山では、「書物に書いてあることを拾い集めて『さとりとは何ぞや』という問いに答えを出すよりは、日々の行持の中で答えを出していかなければならないのだ」という指導を受けていました。それは、日々の生活をとにかく丁寧にこなしていくということです。もちろん坐禅が中心になるのですが、お手洗いに行くことも食事を頂くことも料理を作ることも全部修行であって、それが坐禅やほかのあらゆるお勤めの延長線上にあるわけなのです。そういうことに少しずつ気づいてゆく。頭で理解するよりも、体で理解していくということです。「さとりとは何ぞや」というのは今でも大きな課題として残っています。さとりがどうこうということを人前で語るにはまだ修行が全然足りないと自分でも思っています。ただ、自分の短い経験の中で言えることは、「ひとつひとつ丁寧に丁寧にやっていく」ということ、「今という時間 — 而今 — に身体と意識をしっかりと落とし込んで行じていく」ということが澳门赌场app_老挝黄金赌场-【唯一授权牌照】だということです。自分の中ではいつも、「身体と意識をしっかり一致させて今の行持に取り組めているか」ということを自分に言い聞かせながらやっています。坐禅もそうですし、読経もそうですし、掃除もそうです。
— それが十年の修行の前と後の大きな違いだということでしょうか?
木村 はい。意識と身体をとにかく一致させていくことによって、嫌だとか辛いとか面倒くさいとかいった意識がなくなるところまでしっかりとやっていくということです。どちらかというと私はぼんやりしている方なので、他の人よりはそこまで行くのがちょっと遅かったかもしれません。
— これから修行に入っていこうとしている学生のみなさんに先生から一言アドバイスをお願いいたします。
木村 私は学生さんを修行に送り出すときに「全部忘れて、全部置いて行きなさい」と言うんです。頭も身体も空っぽにして修行に行く。仏教専修科で学んだことさえも、全部忘れていきなさいと言うんです。その方が、新しい修行の生活に入ったとき、何も引きずらず、何も抱えずに入って行けるからです。それがいい修行の入り口になると思います。私が修行に行く時も、「身も心も預けるようにして、思い切ってやりなさい」と教わって行きました。まさにそのとおりでよかったなと思います。長時間の坐禅をして、膝が壊れるかもしれない、足首がおかしくなるかもしれないと思った時もありました。しかしそのことを老僧に申し上げたら、「余計なことを考えないで思い切って坐禅しなさい」というお諭しをいただきました。大変ありがたいお導きでした。
— 大変すばらしいお話をありがとうございました。(合掌)
(2024年1月公開)