仏教専修科
活動記録:澳门赌场app_老挝黄金赌场-【唯一授权牌照】四年度両祖忌
活動概要
学長法話
澳门赌场app_老挝黄金赌场-【唯一授权牌照】学長より、本日両祖忌の御法話を申し上げます。
本日は、お釈迦さまから数えて第五十一代目のご法孫にあたります道元禅師がお亡くなりになられた日、そして道元さまから数えて四代目のご法孫になります瑩山禅師さまがお亡くなりになられたその日でもございます。奇しくも、今の暦に合わせますと九月の二十九日ということで、これを両祖忌と申し上げます。道元禅師は千二百五十三年、建長五年という年号であります。瑩山禅師は千三百二十五年、正中二年というお年にあたります。私たちはお釈迦さまから続く正しい仏法の教えを、道元禅師瑩山禅師ともに仰ぎ、「一仏両祖」とお祀りするのであります。
さて、道元禅師、そして瑩山禅師は、多くの書物を遺されました。今日は授業という形でもありますので、学生のみなさんにふさわしい言葉をお届けすることにいたします。それは道元禅師さまの『典座教訓』という書物にある言葉であります。ご案内の通り「典座」というのは「台所の和尚さま」というほどの意味でございますが、そこに記されている教えは普遍的にして深遠な、すべてのこの世の営みに通ずる壮大な教えであります。台所の調理の心得としてはもちろんでありますが、学生のみなさんにとって、日々の勉強のみならず、ご卒業後のそれぞれの道にあって必ず尊い導きとなるであろう、そのような教えであります。さてその中でも、今日の一文はこうであります。「凡そ物色を調辨するに、凡眼を以て観る莫れ、凡情を以て念ふ莫れ」というものであります。物色というのは、台所の心得としては「食材」ということになります。しかしここでは、「日々生活を送る上でのさまざまな物事や出来事」と置き換えてもよろしいでしょう。私たちが直面するあらゆる物事?出来事を見つめる時、凡眼をもって見てはいけないというのであります。平凡な眼で見てはいけないということです。そして平凡な、日常に流されているような無反省な心で物事?出来事を受け止めてはならないというほどの意味になります。人間は、実におそろしい生き方をすることがあります。それは思い込みや先入観、あるいはこだわりといったものに、私たちは左右されています。しかし、お釈迦さまもおっしゃっておりますが、私たちにとってそうした偏った心やましてや先入観、自分なりのこだわりというものも、多くは気づかぬうちに無反省に、流される生き方の中に、私たちは正しいものの見方を失ってしまっているという警鐘なのであります。禅語には、「鉄船水上に浮かぶ」ともあります。「鉄の船が水に浮かぶ」ということですが、昔の人は鉄が水に浮かぶと聞いただけで大笑いしたそうであります。鉄が水に浮かぶはずがないと思っていたわけです。しかし、現実はどうでしょう。今や鉄の大きな船が、海を悠々と乗り越えて世界中を行き交っています。常識を疑う、思い込みを捨て去る、偏りから離れる。そうした凡眼を捨てて、正眼に還るとき、新しい世界が始まるのであります。とすると、「凡眼を以て観る莫れ、凡情を以て念ふ莫れ」の次には、実はこの言葉が続きます。名文中の名文なので、みなさんも覚えていただきたいと思います。「一茎草を括りて. 宝王刹を建て、 一微塵に入りて大法輪を転ぜよ」と、お示しであります。「一茎草」とは一本の道端に生えているような名もない草、一本の草であります。ただの一本の草と思うかもしれませんが、それをよくよく正しく命と観察するならば、それは五重塔のような大伽藍と変貌するでありましょうということであります。「一微塵に入りて大法輪を転ぜよ」とあります。なんだこれっぽっちとという小さい場所で、いや、小さいささやかな場所どころか、一粒の塵芥の粒であっても、そこに大法輪を転ぜよとあります。世界中の人に向けて大説法をする、そういう修行の場にもなるという意味であります。私たちは普段、「これは多い」「これは少ない」「これは高価なものだ」「これは陳腐なものだ」「これは尊いもの」「これはどうでもいいものだ」「これは美しい」「これは醜い」、そうした分別に迷わされてはいないでしょうか。しかし、すべての出来事、すべてのこの世の存在は、凡眼を離れ、凡情を離れたとき、真実の姿として、かけがえのない命の姿として、現れることでありましょう。これは典座という台所の方の心得として記されたほんの一端の教えです。道元禅師さま、瑩山禅師さまは、そのような尊い、そして私たちが群れ踊り人生を生き生きと生きるための、さとりの智慧を明かして下さったのです。私も心得たいと思いますが、どうぞ皆さん、この両祖忌にちなんで、両祖さまの思いをいただき、皆さんの日常を輝けるものにしていただきたいと思います。以上です。