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VOL.38 SEPTEMBER 2006

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●「障害者と呼ばないで」─障害を持つ子どもと生きる親として

社会福祉学科 K.M.

 社会福祉学科に学んで4年が経過し,多くの同期生が卒業し喜びの言葉が『With』で紹介されていた。同じ大学で学んだ仲間として彼らに拍手を送りたいと思う。私は残念ながらというか予定通りというかその中に入ることはできなかった。1年余計に勉強できるんだと気持ちを切り替えて焦らず気楽にやっていこうと思う。
 私が社会福祉を学問として学びたいと思ったのは,障害を持ってこの世に生を受けた子どもの親として,「人はなぜ心身に傷を持った自分と同じ人間を平気で“障害者”と呼ぶのか」という疑問と,「障害を持った子どもの親として何をすべきか,また,どう生きるべきか」を感情論ではなく理論として学びたかったからである。
 誰しも好んで障害を得た訳ではないのに懸命に生きようとする人間とその家族を社会の邪魔者のように扱う「障害者」という言葉はなぜ改められないのであろう。痴呆症は認知症に,精神分裂病は統合失調症に病名はそれぞれ改められたのにである。私は4年間の学習を通じていやと言うほど「障害者」という言葉を見聞きし,悔しいけれど単位修得のために自分でも書いた。私の長男(30歳)は重度の自閉症といわれ,療育手帳(A判定)の給付を受けている。私たち家族はわが国の福祉制度の中で知的障害者の家族として,30年間,その時々に言葉にできないような体験をしてきた。我が子が知的障害者だと言われ将来的にも知力の回復は望めないと告げられたときの親の気持ちはどんなものか,皆さんは想像できるだろうか。
 私たち家族はこの「知的障害者」と呼ばれている子どもに悲しく辛い思いもさせられたが,それ以上にこの世に生きていく上で大切な多くのことを教えられ,力を与えられ今日まで生きてくることができた。私たちにとって彼は知力に障害はあっても我々には想像もできない潜在能力を持った偉大な存在なのである。そんな人間をなぜ障害者と呼ばなければならないのだろう。私は障害とは差し障りのあるもの,排除されるべきもののことで障害物などの物に対して使う言葉であり決して人間に対して使用すべき言葉ではないと思っている。専門用語にやたら横文字の多用が目立つ福祉の分野で,この言葉だけが依然として中心的な言葉としてあることの不自然さを感じるのは私だけだろうか。自分が呼ばれても不快感を感じることなく誰もが自然に使用できる言葉を考えることが必要な時期に来ているのではなかろうか。
 私たち人間にとって言葉は単なる情報伝達手段というだけではない。言葉は人の心を和ませることも傷つけることもある。その言葉によって他人の心を傷つけるとしたら,もはや言葉は凶器以外の何者でもない。私たちも過去に幾度となく教師,役所の職員,施設職員などの福祉関係者などから深く傷つくような言葉を浴びてきた。しかし,私たち家族が障害を持った子どもと一緒に生きていくためには,涙を抑え唇を噛みしめてそれにじっと耐えるしか方法はなかった。そして,自らまでもが我が子を「障害者」と呼ばざるを得なかったのである。障害のある子どもを持たない人たちに我が子を障害者と呼ばざるを得ない親の気持ちが理解していただけるだろうか。重ねて言うが,福祉の教育で頻繁に言われる人権擁護,人としての尊厳を護るという福祉の理念に照らして「障害者」と言う言葉の問題は果たしてとるに足らない小さな問題なのだろうか。私の長男が小学生の頃は「精神薄弱者」と呼ばれており,その後現在の「知的障害者」へ呼び方は変わったが,実体は何も変わっておらず,単なるレッテルの貼り替えにすぎない。そもそも,知的という言葉と障害者という言葉の組み合わせは日本語としておかしいとしか思えないのだが,これを疑問視する声も少数派にとどまっているようだ。まして障害を持つ者とその家族がこの言葉の問題を表立って唱える動きは今のところ感じられない。私は以前から何故この問題が広く議論されないのか不思議でならなかった。難しい問題ではあるが誰かが手を挙げなくては前進はあり得ない。
 そこで,私はひとつの言葉を提唱したいと思う。それは「被障者」という言葉である。障害は自分で好んで得たものではないことは先に書いた。つまり,障害を被った訳であり,事故の被害者のような存在だと思うからである。現に,原爆の被害者は「被爆者」と呼ばれ,「被爆者援護法」なる法律まで整備されている。「障害者自立支援法」などと言うより「被障者支援法」の方がすっきりして馴染みやすいのではないだろうか。身体被障者,知的被障者,精神被障者などである。決して社会にとって差し障りのある,ましてや取り除くべき存在などではなく,たまたま,障害を負ってしまった人たちだと理解してもらうためにも適切な言葉ではないかと考えたのである。障という文字に抵抗はあるが,これを他の文字にしてしまうと全く意味が通じなくなるおそれがあり,あえて使用している。この言葉がベストだとは考えていないが,これが議論のきっかけになればと考える。この提案に対する異論?反論が百出し,改名論議が盛り上がって,私の在学中にできれば本学関係者の手によって,普遍的なそして慈愛に満ちた改名が実現することを心から強く期待している。

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