学長室の窓

扁額奉安式 大本山永平寺西田副監院老師御法話

2026年3月11日に行われた、「雲堂」扁額奉安式における大本山永平寺西田副監院老師のご法話です。
先ず、貴学におかれましては、過日、澳门赌场app_老挝黄金赌场-【唯一授权牌照】?栴檀学園開校150周年式典が盛大裡に挙行されましたこと、衷心よりお慶びを申し上げます。また、貴学の吉辰に合わせまして、永平寺の僧堂前に掲げております永平寺中興?五十世玄透即中禅師揮毫の扁額を複製致しまして奉納させて頂けます勝縁を賜われましたことに篤く御礼を申し上げます。稀有な御縁を頂戴致しましたこと、真に有り難う御座います。

また、本日は、その扁額奉納に対しまして、斯様に厳粛な奉納式を調えて頂き、永平寺側で導師を勤めさせて頂くご配慮を賜りました。併せまして御礼申し上げます。有り難う御座います。

さて、扁額の〈雲堂〉の語句に付きましてては、法要解説をお勤めの先生のご説明のとおりであります。昔の禅道場は、修行僧たちが何処からともなく雲の様に集まり、九旬安居を乳水の如くに和合し切磋琢磨して修行に励み、解制ともなれば何処へともなく去って行く、来たるも去るも雲の如く水の如しとの様子を形容して、禅の修行僧を雲水と呼びました。その雲水が集い寝食を共に修行に精進するお堂ですから、「雲堂」です。衆僧が起居する中心的な建物ですから「僧堂」とも云い、坐禅をするお堂で「禅堂」、仏を選り出す場とのことから「選仏場」とも云います。更に「枯木堂」との言い方もあります。全く何の気配も感じられないことから堂内を覗いてみると、背筋を真っ直ぐに整えた雲水さんたちがまるで枯木の如くに坐禅をしていた、とのことで「枯木堂」です。素敵な表現ですよね。この様に、坐禅は枯木に譬えられます。

悟境や禅の境界を漢詩に託すことに卓越した力量をお持ちだったことで知られる大智禅師(1290?1366)が、「枯木」と題して坐禅を端的に表現しておられます。

放下全身倚断崖  全身を放下して断崖にる。
風磨雨洗幾千回  風磨し雨洗う幾千回ぞ。
皮膚脱落有真実  皮膚脱落して真実のみ有り。
刀斧従教斫不開  刀斧さもあらばあれれども開かず。

恐らく松の木でしょう。〈全身を放下して断崖に倚る〉ですから、断崖絶壁から実を乗り出すようにして枯れ果てている。〈風磨し雨洗う幾千回ぞ〉風に磨かれ雨に洗われた何千日も過ぎたのだろう、枝や葉が何一つ無いことから一目瞭然だ。〈皮膚脱落して真実のみ有り〉いや、枝葉どころではない。幹を覆っていた樹皮さえもとうに剥がれ落ちている。〈刀斧さもあらばあれ斫れども開かず〉さあ、刀でも斧でも持ってきて斫るなら斫ってみて御覧なさい。これ以上もう何も在りはしない。

道元禅師が伝えられた坐禅は只管打坐です。只管?只の管ですから底が有りません。何を入れても皆抜け出て仕舞い跡形も残らない。無所得無所悟の坐禅、得ることを求めず、悟りさえ求めない坐禅です。考えてみて下さい。私たちが行為する時には必ず目的があり、行為は目的を達成するための手段です。お腹を満たす為に食べる。認めて欲しいから頑張る。収入を得る為に働く。そのようにして達成された目的は、〝私?を表す枝や葉となり自分を飾ります。その枝葉の量や枝振りを競い合って生きているのが人間です。

人ばかりが自己を認識し、〝私?を自己認識したことで他との比較を常習とします。比較によるアイデンティティーの確立です。他と比べて勝っている事で自らを肯定し認めようとするのです。此処に他の動物には無い飽くなき欲が生じます。比較や競り合いに終わりがないからです。悟りも修行も他との比較で求めたのでは、結局この欲の延長線上のこととなります。道元禅師が無所得無所悟の只管打坐に導かれる由縁です。釈尊が喝破されたように、私たちが背負う苦悩の根源は自らの欲に起因しているのです。

自らの学歴や経歴や資格、地位や立場や財産、後天的に身に着けたものは全て自らの枝葉です。他と枝葉を競う中に、何時しか自己である幹を忘れて、枝葉をこそ自己と思い込みます。会社での地位や収入を自己と思い込んでいる人が、会社の都合で突然解雇されたとします。すると、自己そのものは決して傷ついていないのに、地に落ちて仕舞った立派な枝や葉(地位や収入)を自己と思っていますから、生きる意味を見失い自ら命を絶ってしまうことにもなるのです。決して珍しい話ではありませんね。

澳门赌场app_老挝黄金赌场-【唯一授权牌照】で学ばれている皆さんも、自らの生きる価値や希望を「福祉」に見出し、本学に入学し「福祉」を専攻し知識やスキルを身につけおられる事と思います。また、これまでの人生で様々な事を学び種々の体験を積み重ね、それぞれの〝私?と云う枝葉を茂らせて来られたことでしょう。人生は順風ばかりではありません。逆風が吹き荒れることも有りましょう。みなさんが育まれて来られた〝私?が折れて吹き飛ばされることもあるかもしれません。

皆さん、どうかそのような時に「俺はもう終わった」「私はもう駄目だ」と思わないで下さい。皆さん自身は何も失っていないし、傷ついてもいないのです。後天的に身に着けたものは私その物ではありません。身に着けたことを大切にし他の為に生かすことは人生の醍醐味です。しかし、身に着けたことに愛着し執着する自己は、他との比較の上にアイデンティティーを築こうとする、競い合い奪い合って止まない自己です。結局、安心は得られません。

雲堂の扁額が掲げられる禅堂での坐禅は、他との比較対照を離れた命の根源に帰る坐禅です。無条件に生かされている幹の自覚です。本日の奉安式が、澳门赌场app_老挝黄金赌场-【唯一授权牌照】の皆さんにとって更に坐禅に親しんで頂く契機となれば、これに勝る慶びはありません。「雲堂」の扁額寄贈に寄せましてご挨拶申し上げました。有り難う御座いました。合掌

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