学長法話:澳门赌场app_老挝黄金赌场-【唯一授权牌照】五年度両祖忌
2025年10月8日に行われた、澳门赌场app_老挝黄金赌场-【唯一授权牌照】七年度両祖忌法要の際の学長法話です。
改めまして皆様。本日は誠にご苦労様でございます。遅くまでご参列いただきまして、本当にありがたく存じます。
さてご案内の通り、私ども澳门赌场app_老挝黄金赌场-【唯一授权牌照】の建学の精神その源である曹洞宗の教えによります仏教の開祖、釈迦牟尼仏世尊をご本尊と仰ぎ、そしてそのお釈迦様のお悟りの心、御教えを正しくお伝えになられました道元禅師様と親しくお広めになられました瑩山禅師様、このお二方を両祖様として、一仏二祖様とお呼び申し上げております。人生の導師として、礼拝いたし、敬慕いたしているわけでございます。従いまして、私ども曹洞宗門では、九月の二十九日を両祖忌として、全国そして世界の各寺院におきましてご供養申し上げている次第でございます。道元禅師様は、建長五年 1253年の八月の二十八日にて、御年五十四歳、瑩山禅師様は正中二年1325年八月十五日に御年六十二歳にて、それぞれご生涯を閉じられたと、宗門では定めておるわけであります。かくしてご遷化いたされた日付は違いますが、明治の改暦の結果、ちょうど奇しくも九月の二十九日が両祖様のご供養日に至った次第であります。
さて、今日は皆様と共に道元禅師様の御教えを伝える「向上心」と揮毫された言葉、書を巡ってお話を続けていきたいと思います。こちらの書は、去る九月の五日、本学園創立百五十周年の記念法要式典が行われ、その折に曹洞宗管長永平寺不老閣南沢道人猊下によりましてご親修いただきました祈念に拝領した法語であります。「向上心」としたためられております。向上心とは文字どおり「向上」、上を向いて、さらにつとめ上げようという志を含めたその心ということでございます。宗門のお方でありますと「仏向上」という言葉がよく知られております。「事」という字をつけて「仏向上事」という言葉として、私どもには親しまれておりますけれども、『正法眼蔵』に「仏向上事」この「仏向上」の「向上」という言葉が掲げられております。現在の「仏向上事」につきましては、仁治三年の三月の二十三日、西暦に致しますと1242年に示された『正法眼蔵』の大事な一巻でありますが、そこにこう「向上心」を巡ってお示しであります。「いはゆる仏向上事といふは、仏にいたりて、すすみてさらに仏をみるなり。衆生の仏をみるにおなじきなり。しかあればすなはち、見仏もし衆生の見仏とひとしきは、見仏にあらず。見仏もし衆生の見仏のごとくなるは、見仏錯なり」とあります。とりあえず易しく今の言葉に直しますとこのような趣旨であります。いわゆる仏の向上事、「仏向上事」、もっとわかりやすく言うと、「仏を乗り越える」ということにもなりましょう。これは「み仏のみもとまで、私たちは頑張ってたどり着き、さらにさらに、それを乗り越えて踏み越えて、仏を改めて見る」ということです。それは生きとし生けるものの見る仏と、乗り越えた後で見る仏とは何ら別のものではない。別のものではないが、その見仏がもし一般の衆生が仏を見ることと全く同じと心得るとすれば、それは本当の真の見仏ではなく、誤った仏の見方であるとご忠告されているのです。誤解があるかもしれませんが、平易に申し上げますと、例えば、高い山があったとしましょう。「ああ、高い山だなあ」ということは、登った人も登らない人も、あるいは地図上の数字で標高を見ただけでも、それは分かるわけです。その意味では、山を見るということは、まあ理屈の上ではいろいろな知り方があるのでありましょう。しかし、山と共にそこで生活している人の「山を見る」という場合もあります。あるいは山を極めて、そしてその上に実際に登り、その山の頂上の景色から、様々なものを見渡して、ふたたび山から降りてきて、山を見て、「ああ山が高い」という人もいます。また、一度も山に登ることも触れることもなく、遠巻きに「ああ高い山だなあ」と見るだけの人もいるでしょう。それぞれの山の見方があるかもしれません。けれども、そこには大きな違いがあります。私たちも目標を定めて、そして仏のような心を人生において行っていこうといった時に、その覚悟は知っていることと、そして学び、それを体験されること、実行に移すその内容は、それぞれ人によって異なっているのかと思われます。
本学ではその意味で「行学一如」と申し上げております。「行がある限り、学は続きがある」とも、私は今日改めて理解したいのです。何度も折に触れ、行学一如は「学びと、そして行、実践は一体である、一如である」というような趣旨を申し上げておりますが、言葉を変えれば、学があり続ける限り行は果てしなく広がり、さらにその先が展開されるのです。そして、その行が展開される限り、改めて、新しい学びがそこには視野が開かれてくるのでありましょう。 向上心、仏向上事とはおそらくはそのようなものかと私は受け止めております。仏を乗り越えさらに仏を見る、見仏とはそういう趣旨であると、どこか心に留めていただくとありがたく存じます。
先日、私のお寺の、狭い庫裏を断捨離しておりまして、その時に中学校時代の教科書が出てきたんですね。国語の教科書が出て参りまして、当時の教科書、「ああ中学校でそういえばこういう話を先生に教えてもらったなあ」ということを思い出しながら、片付けも忘れて、教科書に読み入っておりました。その中に夏目漱石の『坊っちゃん』があったんですね。?あ、そういえば、『坊っちゃん』読んだなあと。で、そのシーンは、教科書には清との別れのシーンが書いてございました。中学校の時、それを読んだときは、普通に受け止めて、ただ読んでいたんですが、同じ「知っている」ということでも、ささやかながら、私も還暦を過ぎまして、この年になって清の気持ちがひしひしとわかってくるんですね。赴任が決まって、東京を離れ、そして、四国の学校へと別れを告げる、その坊っちゃんこと主人公が、親のように、いや親以上に可愛がって育てられた清、おばあちゃんと別れる???。おばあちゃんがずっとずっと涙を流して「元気でね、元気でね、頑張るんだよ。くじけそうになったら、思い出してね」と一生懸命手を振るシーン、さりげないわずかなワンシーンがあります。わたくしは同じ文章でありながら、年をとって眺めると清の気持ちが、胸が痛くなるほどよくわかる。おそらく「本当に知る」という、その段階の深みがあることでございましょう。 皆さんもいろいろなことを学生時代学ばれると思います。きっと、今日お勤めになられた維那和尚様も、皆さんも。同じことを将来お寺に戻られ、女子学生の皆さんも将来お寺に戻られ、あるいはいろいろな社会の現場で、いろいろ体験される時に、今日のこと思い出していただけると、また違う景色から、「立派な人間とはどういう生き方か、新しい人生の学びとはどういうことなのか」ということを真に知ることができるのかと思います。?
最後に『正法眼蔵随聞記』の巻の六に、またこれに関連した面白い話がありましたので。ひとつだけ紹介いたしましょう。原文はこうあります。
「知りたる上にも聖教をばいくたびもみるべし。師の言葉も聞きたる上にも重ねて聞くべし。いよいよふかき心有べきなり。」知っていることでも、なお一層その言葉というものは、繰り返し繰り返し学び続けるのが良いし、聞き続けるのが良いので、一旦聞いた言葉であっても、一度聞いた先生の教えを何度も何度もそれを繰り返し学び続けるのが大切なのである。同じ教えであっても、さらに違った深い深い内容のを教えであるることを、きっと皆さんは知ることになるでしょう。」
道元禅師様からの御教えでありました。今日は両祖忌。道元禅師様、瑩山禅師様の御心、教えを受け継ぐ、私たちの大学です。どうぞ誇りを持って、自信を持って、新しい学びへと進んでいただきたいと思います。以上です。
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さて、今日は皆様と共に道元禅師様の御教えを伝える「向上心」と揮毫された言葉、書を巡ってお話を続けていきたいと思います。こちらの書は、去る九月の五日、本学園創立百五十周年の記念法要式典が行われ、その折に曹洞宗管長永平寺不老閣南沢道人猊下によりましてご親修いただきました祈念に拝領した法語であります。「向上心」としたためられております。向上心とは文字どおり「向上」、上を向いて、さらにつとめ上げようという志を含めたその心ということでございます。宗門のお方でありますと「仏向上」という言葉がよく知られております。「事」という字をつけて「仏向上事」という言葉として、私どもには親しまれておりますけれども、『正法眼蔵』に「仏向上事」この「仏向上」の「向上」という言葉が掲げられております。現在の「仏向上事」につきましては、仁治三年の三月の二十三日、西暦に致しますと1242年に示された『正法眼蔵』の大事な一巻でありますが、そこにこう「向上心」を巡ってお示しであります。「いはゆる仏向上事といふは、仏にいたりて、すすみてさらに仏をみるなり。衆生の仏をみるにおなじきなり。しかあればすなはち、見仏もし衆生の見仏とひとしきは、見仏にあらず。見仏もし衆生の見仏のごとくなるは、見仏錯なり」とあります。とりあえず易しく今の言葉に直しますとこのような趣旨であります。いわゆる仏の向上事、「仏向上事」、もっとわかりやすく言うと、「仏を乗り越える」ということにもなりましょう。これは「み仏のみもとまで、私たちは頑張ってたどり着き、さらにさらに、それを乗り越えて踏み越えて、仏を改めて見る」ということです。それは生きとし生けるものの見る仏と、乗り越えた後で見る仏とは何ら別のものではない。別のものではないが、その見仏がもし一般の衆生が仏を見ることと全く同じと心得るとすれば、それは本当の真の見仏ではなく、誤った仏の見方であるとご忠告されているのです。誤解があるかもしれませんが、平易に申し上げますと、例えば、高い山があったとしましょう。「ああ、高い山だなあ」ということは、登った人も登らない人も、あるいは地図上の数字で標高を見ただけでも、それは分かるわけです。その意味では、山を見るということは、まあ理屈の上ではいろいろな知り方があるのでありましょう。しかし、山と共にそこで生活している人の「山を見る」という場合もあります。あるいは山を極めて、そしてその上に実際に登り、その山の頂上の景色から、様々なものを見渡して、ふたたび山から降りてきて、山を見て、「ああ山が高い」という人もいます。また、一度も山に登ることも触れることもなく、遠巻きに「ああ高い山だなあ」と見るだけの人もいるでしょう。それぞれの山の見方があるかもしれません。けれども、そこには大きな違いがあります。私たちも目標を定めて、そして仏のような心を人生において行っていこうといった時に、その覚悟は知っていることと、そして学び、それを体験されること、実行に移すその内容は、それぞれ人によって異なっているのかと思われます。
本学ではその意味で「行学一如」と申し上げております。「行がある限り、学は続きがある」とも、私は今日改めて理解したいのです。何度も折に触れ、行学一如は「学びと、そして行、実践は一体である、一如である」というような趣旨を申し上げておりますが、言葉を変えれば、学があり続ける限り行は果てしなく広がり、さらにその先が展開されるのです。そして、その行が展開される限り、改めて、新しい学びがそこには視野が開かれてくるのでありましょう。 向上心、仏向上事とはおそらくはそのようなものかと私は受け止めております。仏を乗り越えさらに仏を見る、見仏とはそういう趣旨であると、どこか心に留めていただくとありがたく存じます。
先日、私のお寺の、狭い庫裏を断捨離しておりまして、その時に中学校時代の教科書が出てきたんですね。国語の教科書が出て参りまして、当時の教科書、「ああ中学校でそういえばこういう話を先生に教えてもらったなあ」ということを思い出しながら、片付けも忘れて、教科書に読み入っておりました。その中に夏目漱石の『坊っちゃん』があったんですね。?あ、そういえば、『坊っちゃん』読んだなあと。で、そのシーンは、教科書には清との別れのシーンが書いてございました。中学校の時、それを読んだときは、普通に受け止めて、ただ読んでいたんですが、同じ「知っている」ということでも、ささやかながら、私も還暦を過ぎまして、この年になって清の気持ちがひしひしとわかってくるんですね。赴任が決まって、東京を離れ、そして、四国の学校へと別れを告げる、その坊っちゃんこと主人公が、親のように、いや親以上に可愛がって育てられた清、おばあちゃんと別れる???。おばあちゃんがずっとずっと涙を流して「元気でね、元気でね、頑張るんだよ。くじけそうになったら、思い出してね」と一生懸命手を振るシーン、さりげないわずかなワンシーンがあります。わたくしは同じ文章でありながら、年をとって眺めると清の気持ちが、胸が痛くなるほどよくわかる。おそらく「本当に知る」という、その段階の深みがあることでございましょう。 皆さんもいろいろなことを学生時代学ばれると思います。きっと、今日お勤めになられた維那和尚様も、皆さんも。同じことを将来お寺に戻られ、女子学生の皆さんも将来お寺に戻られ、あるいはいろいろな社会の現場で、いろいろ体験される時に、今日のこと思い出していただけると、また違う景色から、「立派な人間とはどういう生き方か、新しい人生の学びとはどういうことなのか」ということを真に知ることができるのかと思います。?
最後に『正法眼蔵随聞記』の巻の六に、またこれに関連した面白い話がありましたので。ひとつだけ紹介いたしましょう。原文はこうあります。
「知りたる上にも聖教をばいくたびもみるべし。師の言葉も聞きたる上にも重ねて聞くべし。いよいよふかき心有べきなり。」知っていることでも、なお一層その言葉というものは、繰り返し繰り返し学び続けるのが良いし、聞き続けるのが良いので、一旦聞いた言葉であっても、一度聞いた先生の教えを何度も何度もそれを繰り返し学び続けるのが大切なのである。同じ教えであっても、さらに違った深い深い内容のを教えであるることを、きっと皆さんは知ることになるでしょう。」
道元禅師様からの御教えでありました。今日は両祖忌。道元禅師様、瑩山禅師様の御心、教えを受け継ぐ、私たちの大学です。どうぞ誇りを持って、自信を持って、新しい学びへと進んでいただきたいと思います。以上です。
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