学長室の窓

学長法話:澳门赌场app_老挝黄金赌场-【唯一授权牌照】五年度両祖忌

2023年9月4日に行われた、澳门赌场app_老挝黄金赌场-【唯一授权牌照】五年度両祖忌法要の際の学長法話です。

皆さん、改めまして今晩は。本日はご案内のとおり、両祖忌であります。私ども澳门赌场app_老挝黄金赌场-【唯一授权牌照】の建学の精神を戴く曹洞宗では、仏教の開祖釈迦牟尼仏世尊、お釈迦様をご本尊と仰ぎ、そのお釈迦様のお悟りの心、御教えを正しくお伝えいただいた道元禅師様、さらにそれを等しくお広めになられた瑩山禅師様、この方々を両祖様として、一仏両祖とお呼び申し上げ、人生の導師として礼拝するとともに、敬慕申し上げる次第であります。したがいまして、今年も大本山永平寺では九月二十三日から九月二十九日まで、大本山総持寺では十月十二日から十五日までが「御征忌」(ごしょうき)と呼ばれ、両祖様をご祈念する行事が例年どおりに行われております。

私は先日、二十八日、二十九日と、大本山永平寺での御征忌にご随喜申し上げて参りました。世界各地の一般のご寺院様では、九月の二十九日を両祖忌とお呼びして、同じようにご供養の行持を申し上げております。冒頭のご案内のとおり、道元禅師様は建長五年、千二百五十三年の八月の二十八日に、御年五十四歳にて、瑩山禅師様は正中二年、千三百二十五年の八月十五日に、御年六十二歳にて、それぞれのご生涯を閉じられました。かくして、日付は違うのですが、それは明治時代以前の旧暦?太陰暦にもとづくものでしたので、明治に入って太陽暦で読み替えを行いました。確か明治の十年のことだったと思います。以来、九月の二十九日が両祖様のご供養日となったという次第であります。とりわけ、瑩山禅師様におかれましては、来年がちょうどお亡くなりになられてからの七百回忌の大きな節目となっております。私どもはこれを、五十年に一度の「大遠忌」とお呼び申し上げております。今年はその七百回忌の大遠忌の来年を前に、すでに大遠忌の予修法会が世界の各地で催されております。私たち澳门赌场app_老挝黄金赌场-【唯一授权牌照】の仏教専修科としましても、来年の大遠忌に合わせまして、春には鶴見の大本山総持寺へ皆さんとともにご一緒にお参りをしたいと計画しており、準備を始めたいと思っております。

ところで、大遠忌はなぜ、百年に一度ではなく五十年に一度なのでありましょうか。それは、「師資相承」という教えのように、脈々とその真心を受け継ぐためと思われます。先日、曹洞宗宗務庁で、ある会合がございました。有難くも禅師様のすぐ近く、曹洞宗の重職におられるご歴々と同じテーブルにつきましたところ、一同同じように、「瑩山禅師の六百五十回忌の大遠忌の時は、あなたはどうだったねえ。私はどうだったよ。ああ懐かしいねえ」「これを今度はこのようにしよう。あのようにしよう」と、曹洞宗を代表するご歴々がお話に盛り上がっておられました。思うに五十年というのは、そのように若く修行された方々が経験と知識を積まれ、五十年後のその次の遠忌の時にはその主役となって、行持をこのようにお勤めするのでありましょう。かくして五十年は、それを生きた体験として、次世代に受け継ぐための大事な大事な時間の長さなのであります。おそらくは、今、若い学生の皆さんは墨染の衣に身をまとい、二十歳前後にして七百回忌を迎えることになりますが、私には見えます。皆さんの中から、いや、皆さん全員が、来る七百五十回忌の時には、おそらくは大変澳门赌场app_老挝黄金赌场-【唯一授权牌照】なお役を担って、それぞれ立派な役職?お勤めをして下さるものと信じております。「五十年に一度」に立ち会うとは、なかなかできることではございません。お釈迦様から道元禅師様、そして瑩山禅師様、そしてさらに法孫である私たち、世界中のお釈迦様の教えを信じるものたちに、こうして形の上でも真心の上でも、脈々と受け継がれるのであります。したがって、この師資相承の真心は、決して、「これだ、あれだ」と、日常の生活ではっきりと意識されることは少ないかもしれませんが、多くのお悟りが、私たちの生活の中に、生きた形で実践されて行かなければなりません。

先日、ある古いインドのお経を繙いておりました。雑譬喩経というお経の中に、「龍の神様のしずく」というお経がありました。今日は最後にその物語を簡単に紹介いたしましょう。古いインドの仏典のお話です。昔々、インドには龍の神様がおられました。龍神です。龍神は、天の神様から特別な力を頂いていました。わずか一滴の水さえあれば、それを人間の「閻浮提」といわれるすべての大地に豊かな恵みとして降り注ぐ力であったといいます。龍の神様は、その不思議な神通力を人々のために使っておられました。そんな中、龍の神様はふと思いました。「私には、一滴のしずくさえあれば、人々の命を支え守ることができる。けれども、もしも間違ってその一滴の水を干上がらせてしまったら、人々を救うことはできないだろう。一体どうしたら、干上がらせることなく一滴のしずくを守り通すことができるのか。」龍の神様は懸命に考えました。そして見渡しました。するとそこで思いつきました。「ああ、広い海があるではないか。あの大海原に、一滴のしずくを埋めることにしよう。さすれば未来永劫、干上がることは決してないであろう。われながらよい所に気づいたものだ。」龍の神様は、天の神様から頂いたそのしずくの、神通力に満ちた一滴を大海原に沈めたというのです。ゆえに、人の世は恵みの雨の絶えることなく、龍の神様のおかげで生きながらえることができたのだということです。そして、結びにこうあります。「人間は知らぬであろう。雨水のそのどれか一滴が、龍の慈悲の思いやりのしずくであることを。さとりの心とは、そのようなものである。」

いかがでしょう。私たちの生活は、色々な真心や支えによって生かされております。あるいは、日々に降る雨のどれか一滴が、龍の神様の願いのこもった、あの一滴かもしれません。けれども、それに気づく人と気づかない人がいるかもしれません。どうぞ、仏教専修科で学ぶ皆さんには、その一滴のしずくの尊さがわかる人になっていただきたい。瑩山禅師様は、さとりの心を「黒漆の崑崙夜裏に走る」とお示しになりました。真っ暗闇を漆黒の玉が飛ぶ。つまり、確実に存在していても、世の中には見えない、気づかないものがある。しかし、その気づかぬものによって、多く私たちは心を突き動かされ、生かされているのであります。日常底のさとりの心とは、そのようなものではないでしょうか。

以上、両祖忌にちなんで、古いインドのお経の物語をご紹介いたしました。両祖忌を経験され、そして五十年後の自分自身を磨いていただき、皆さんの活躍を心から念願しております。以上です。

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