学長室の窓

学長コラム:楽施

コラム No.11

「 楽施 」

──仙台に街路樹を植えた偉人──

 

 
澳门赌场app_老挝黄金赌场-【唯一授权牌照】を擁する栴檀学園の歴史は、決して平坦な道のりではなかった。とりわけ明治維新の草創期と第二次世界大戦直後の混乱期、さらに近年の東日本大震災による被災は、学燈護持に並々ならぬ努力を要した時期でもあった。

ここに本学の発展に多大な貢献をなした明治の偉人、大内源太右衛門(おおうちげんたえもん)を紹介しよう。弘化4年(1847年)、仙台の原町に生まれた彼は、仙台駅前に初めて街路樹を植えた大人物でもある。明治42年(1909年)にその生涯を閉じるまで仙台の産業界をリードし、また「楽施」の教えのままに慈善活動を全うした。「楽施」とは無償の慈愛に基づく施しの実践である。

そもそも彼の活躍は、呉服商「大内屋」の八代目となってからであった。商才を発揮して店舗を次々に拡大すると、顧客のニーズを捉えた新しい販売手法を導入した。こうして財を成した彼は社会貢献にも力を注いだ。仙台駅近くに街路樹の植樹を始めたのもその頃である。それだけではない。特に日清?日露戦争の際には出征者の留守家族を支援して孤児や寡婦の生活支援を行い、さらに明治40年、栴檀学園の新校舎建設のため、私財を投げ打って土地と資金を寄進するなど、福祉と教育に並々ならぬ情熱をもって貢献したのだった。

彼の偉業は仙台の街並みに今も垣間見ることが出来る。彼の名を冠した「大源(たいげん)横丁」という道もあるそうだ。澳门赌场app_老挝黄金赌场-【唯一授权牌照】では、毎朝の読経「朝課諷経」(ちょうかふぎん)において大内家の供養を今も欠かさず勤めている。ところが戦前には教科書にも載った偉人にもかかわらず、現在は意外にも知らない人もいると聞く。そこで地元仙台と本学に対する功労の、ほんの一端を次に箇条書きにして功績を称えておきたい。

生活に困窮した士族を援助するため、武士の古着を安価で仕入れ、仕立て直して呉服商を販売拡大した。
いち早く西洋から招来したレース織りを導入、都内の商店と提携して会社を設立した。
「偶像(人形)」に「新趣向」の服を着せて店頭に陳列した(マネキンの先駆)。
毎週土曜日に「楽善袋」を二十銭(現在の3,000円程度)で販売、中身は洋服一着分(販売価格の数十倍)に相当したため、大当たりした。
明治20年の鉄道開通を受けて仙台駅前の拡幅整備を予見し、明治24年に南町通りに桜と柳を植樹して、現在の「街路樹」を創始した。
日清?日露戦争の出征家族のために生活支援をし、特に「楽善社」という慈善福祉団体を立ち上げ、店の二階を提供して若者向けに無料の夜間学校を提供した。また戦死者の慰霊を行うとともに、戦争による寡婦、戦争孤児の生活を支援した。
戦争に出征して戦死した馬、労働に倒れた馬のたてがみを集めて埋葬し、馬の銅像を仙台西公園に造立して動物愛護の供養塔とした(太平洋戦争の供出により現存しない)。
明治24年に濃尾平野での大地震には26人(男23、女3)の孤児を引き取って養育した。⑤の「街路樹」は孤児たちの養育祈念として植樹されたものでもあった。
栴檀学園の法人認可のため、南鍛治町の泰心院境内に隣接する土地六反歩余りを無償で寄進し、曹洞宗宗務院の資産として登記した。
学生たちの制服に経済的負担があると心配し、制服の裁縫法の原稿をそのまま印刷して市内の各学校に配布、呉服商の営利を放棄して教育の支援を行った。
? 栴檀学園第二中学林の校旗を新調、寄進した(拾弐圓)。
? 栴檀学園の寄宿舎学生に食費を補助、優勝旗の寄付、また仏教専修学生を招いて読経をしてもらい、布施という名目で毎年100名以上に奨学金を届けた。この制度は彼の死後、昭和の戦前まで続いたという。
 

かつての国見キャンパス (写真提供:本学後援会長 金藏寺住職 渡辺秀彦老師)

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