学長室の窓

学長コラム:口中の斧

コラム No.6

あらあらしき言葉を語らず、

道理と真実の言葉を語り、

言葉によりて何ぴとをも怒らしめぬ人、

われは、かかる人を聖者と呼ぶ。

『経集』「ヴァーセッタ経」

“情報氾濫の時代”と言われて久しい。すなわち人類史において今ほど言葉の澳门赌场app_老挝黄金赌场-【唯一授权牌照】性が高まっている時代はないことを意味する。
「人間は言語によってのみ人間である」とはドイツの言語学者、シュタインタール(1823~99)の言葉だが、これは仏教にも深く通じた考え方である。実際、インド仏教の権威書『阿毘達磨倶舎論(あびだるまくしゃろん)』には、「仏教とは仏の言葉(ヴァチャナ)である」と定義されているほどである。
ブッダは日ごろ、人間にとって大事なこととは何かを仏弟子たちにやさしく語られた。その人の生き方を決定するのは、地位でも生まれでも、あるいは所有物でもなく、ただ言葉などの行為((ごう))のみであるとした。その一例を原始仏典に見てみよう。

ある日、坐禅を終えた若き修行僧のヴァーセッタとバーラドヴァーシャは、足の疲れをとるために、そぞろ歩きをしながら議論をしていた。すると二人は、この世の聖者とはどういう人物で、どうすればなれるのかという議論になった。
「そうだ、あの“道の人”ゴータマに尋ねてみよう!」
こうしてイッチャーナンガラ林を訪れた二人は、ブッダに親しく挨拶を申し上げてから質問したところ、ブッダはこう答えた。
「人間は、その行為(業)こそが問われなければならない」

このようにブッダは語ると、さらに人間の行為とは三業(さんごう)、つまり身体(身)と言葉(口)と思惟(意)の三つのいとなみであり、とりわけ言語行為(口業(くごう))を大切にせよと若者たちにやさしく示されたのだった。

「人は生まれながらにして、口中に生じた斧を持っている。
人は悪口を言っては、その斧で自分自身を斬る。
自分を苦しめず、また他人を害しないような言葉のみを語れ。
これこそ実に善く説かれた言葉なのである」  『自説経』

言葉は自己と他者をつなぎ、過去から未来を結ぶ架け橋である。ネット社会が主役となりつつある現代だからこそ、ブッダの警句が深く心に響いてくる。      

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